台所に立つことの動機は、やはり「お腹がすいた」、「おいしいものが食べたい」、それで十分なのだ。シャンソン歌手「藤原素子」が綴る、日々の、普通の食卓のレシピ

貧すれど鈍せず

新生活について

ここのところ忙しく、なかなか続きを書けなかった。

アパートの立ち退きの為、引越をすることになったのだ。
誤解のないように断っておくが、大家の都合で、である。
猛暑の中、不動産をハシゴし、あわただしく引っ越した。
それというのも、9月に地元でのコンサートが決まっていたので、早く落ち着きたかったのだ。

引っ越したのは池上線沿線のワンルーム。
私を知っている人たちは皆驚いたようだ。

それまで私は、「都心から遠くても、広い部屋に住みたい」という主義だった。
しかし物件探しをしているうちに、ふと、そんな固執からも脱却してみたい、そんな感情が湧いてきたのだ。
収納する場所があればあるだけ、人間は荷物をかかえることになる。
事実、私も今まで膨大な量の荷物を増やしてきた。
ここらで、また身軽な生活をしてみたくなった。
そして今、その生活も2ヶ月を迎えようとしている。

ワンルームといえども、台所の収納は充実している。
衣類や家具などは、半分以上捨てたり引き取ってもらったりしたが、台所用品はほとんど移動した。
食器や調味料などは、いままで通りだ。

ところが、である。
ごく最近まで、あまり食事に情熱的でなかったことを告白しよう。
もちろん、コンサートの前後は、気ぜわしくて、料理どころではなかったが、問題は環境である。

新居は駅から徒歩1分。
すぐそばには、庶民的な商店街。
昔ながらの小さな小売り店が、軒を連ねている。
肉屋にいたっては、徒歩5分圏内に10件ほどもありそうだ。
そのかわり、なんでもそろうスーパーマーケットは、あまり充実していない。
まさしく絵に描いたような商店街だ。
なにしろ便利なのである。
ところがこの便利さがいけなかった。

都会というものは、どこまでも消費を求めていく構造になっているようだ。
肉屋に行けば、出来合いのコロッケが、八百屋には惣菜が並んでいる。
スーパーなどでは目立たないコーナーに置かれているものが、小売り店舗の中ではひときわ目立つ場所に並べられているのである。
中には店先を、焼鳥屋のようにしている鶏肉専門店もある。

肉屋に入り、「エート、鶏の胸を一枚ください」と言うと、おっちゃんはそのとおり、胸肉をひとひら取って、グラムを量ってくれる。
値段は、百グラムいくら、と表示されているので、一体、今おっちゃんが手にした胸肉がいくらなのか、大きいのか小さいのか、まったく選択の余地はない。
今日はこま切れにして野菜と炒めるので、あまり立派じゃなくてもいいのだが、皮はしっかりしているのか、しかし、脂肪の部分が多くはないだろうな、脂肪の重さもグラムに含まれているんだぞ、などと考えているうちに、おっちゃんは包みを差し出しながら、「441円」などと言うのだ。

一瞬、私はパニックに陥る。
これから八百屋に行って、野菜も買うのだ。
薬局でトイレットペーパーも買わなくてはならない。
鶏肉だけでこの値段なら、スーパーでは素通りしていたはずだ。
しかも、こんな小規模店舗なのに消費税がついているなんて。

しかし、いったん包まれたものを「いらない」とも言えないので、やむなくお金を払って肉屋を出る。
最初の一件で、私はもうくたくたに疲労困憊してしまったのだ。

こうなると、家を出たときの元気はどこへやら、八百屋へ寄るのもめんどうになるというものだ。
百円と書かれたコロッケを指し、「一個ください」と言ったほうが簡単である。

一度出来合いの惣菜を買うようになると、クセになる。
またたく間に、自分の望むものが目の前に出てくるのだ。
唐揚げ、サラダ、漬け物、煮物、焼き魚・・・。
なんでもお望みどおりである。

ところが、そんな生活が一週間ほど続いたある日、突然、「おいしいものが食べたい!」と感じてしまったのだ。

そうなのだ。
いくら簡単で、バリエーションがあっても、基本的に出来合いの惣菜はおいしくない、ということに、やっと気がついた瞬間であった。
出来上がってから何時間たっているか、と考えると、その理由もわかる。
保存料のことも気にかかる。

こうして、簡易生活は終った。
わずか一週間余りのことであったが、全外食派の友達の気持ちが、少しだけわかった体験であった。



当サイトへのリンクはご自由に
http://motokoclub.net/
藤原素子 Official Web Site リンクバナー