台所に立つことの動機は、やはり「お腹がすいた」、「おいしいものが食べたい」、それで十分なのだ。シャンソン歌手「藤原素子」が綴る、日々の、普通の食卓のレシピ

とりとめのない日常 その2

日常が、ホントにとりとめがなくなってきたこの頃。

今年の夏は天候が悪いせいもあり、ずっと「プチひきこもり」生活だった。別に精神的に病んでいるわけではないのだが、外界と接触するのがめんどうになってしまったのだ。外には様々な情報や刺激がある代わりに、危険な事や人が(!)たくさんいる。それらを乗り越える気力がなくなってしまった数ヶ月だった。

ところが、夏が終わり天候が回復してくると、打って変わって今度は行き急ぐように羽目を外しまくる。知らないことに出くわすと、「生きててよかったあ」などと思ったりする。まるで別人のようだが、何かのきっかけがあったわけでもなく、「雨季」と「乾季」のようなものなのだろうと、自分では理解することにした。

引きこもっていた間も、テレビはよく見た。私のテレビは笑っちゃうくらい旧式で、パソコンのモニタよりも小さいやつだが、放送している内容は最新式の大画面テレビと同じなので(あたりまえだ)、もっぱら情報はテレビに頼っていた。

テレビ番組ってホントにうまく出来ていて、視覚的にも聴覚的にも、むしろ現場にいるよりも正確に状況を理解できるんじゃないかと思うくらい。もうこのまま外に出なくても暮らせるようだ。

ところが、先日久しぶりにライブをやって驚いた。曲の間にしゃべることがないのだ。

私はアドリブが苦手で、このMCというものにはいつも悩まされているので、あらかじめ台本を作っておいたりするのだが、今回は何のネタも浮かばない。大勢の前で、こちらが一方的に発言することができる機会なんて、通常生活ではめったに与えられないだけに、いつも何を話そうかと悩みつつも、それが楽しみでもあったのに。何かないかと探しても、出てくるのはテレビからの情報だけ。しかも浮かんでくるのは、使い古されたようなくだらないことばかり。ライブは何とか誤魔化して終わったが、一体なんだったのでしょうね?

そうこうしているうちに、先日震度4の地震があった。おそらく揺れは1分間くらいのものだったのだろうが、周囲のモノが、建物ごとユッサユッサと音をたてて揺れている。逃げようかどうしようかと、一瞬のうちに選択肢が100個くらい頭をよぎる。正直恐かった。

私がライブの度に歌っている歌で、「満月の夕(ゆうべ)」という曲がある。阪神・淡路大地震の時に作られた歌。もう今年は外そうと思いつつ、世界に大事件が起こると思い出してしまって、また加えてしまうのだ。とはいえ、私はこの大地震を体験したわけではない。震度4の地震にビビりまくっている自分を、思わず笑ってしまった。

テレビの画面で見る情報は、あくまでも情報でしかない。わかっていつつも、つい体感しているつもりになってしまう。たまにしゃべっていて退屈な人がいるが、よく聞いてみると、情報しかしゃべっていなかったりする。情報はただの情報であるべきで、それをどう感じたかが、本当に聞きたいことなのに、その手前で終わってしまう。

学校では、よりたくさんの情報を記憶している人を、「アタマがいい」と言う。「優秀」だとも言う。こんなくだらない価値観はないわけで、そんなもので人間を評価していること事態が、間違っている!と、声を大にして言いたい。

だたし、よりたくさんの情報を記憶しようと努力したこと、これは間違いなく体感である。評価するなら、その努力したことについて賞賛すべきなんじゃないだろか?

「世界ウルルン滞在記」で、戦争で負傷したアフガニスタンの子供のことをやっていた。見るのが辛くて一年分くらいの涙を流してしまった。残念なことに私は東ちづるではなく、子供たちと直接触れあうことは出来なかったが、滂沱とあふれる涙は、間違いなく私の体験であった。



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