不定期更新!?藤原素子の日記帳です。

日々の出来事 〜Diary〜

#468 あさしょーりゅ
2010年02月07日(日)01時01分
なるべく穏やかに生活しようと心がけている。コトを荒立てることなく、ふとした疑問も、聞き流して忘れてしまえば平和だ。ワザワザ取上げることはないのだが・・・。最近どうしても気になってしまうことがある。
朝青龍の引退会見だ。
来日してから10年以上。記者の質問にも一見達者な日本語を使っているように見えるが、この日本語、どうにも聞き捨てならない。
まず、「やっぱり」が多すぎる。
「やはり」と発言する場合は、話し手と聞き手との間で、ある共通する認識があることが前提だが、まったくそれがない場合で使われている。文章の終わりに、「ね。」と言うのも、「相手が自分の気持ちを分かって当然」という思い上がりと取られかねない。
「まあ」という言葉も気になる。
「いちおう」「みたいな」「〜的な」などは、直接的な言い回しを避ける日本人らしいハヤリ言葉だが、引退会見のように、意思を明確に伝えなければならない場で、「まあ」という言葉を濫用するのはどうかと思う。おそらく、他のスポーツ選手のインタビューによく出てくる、「そうですね〜」と同じニュアンスで言っているのだと思うが、「まあ」の方が、より発言を曖昧にしようとする意図があるように聞こえてしまう。
「私」というべきところを「自分」というのも子供っぽい言い回し。自身のことを「〜な人間」と言うのも現代的だ。
つまるところ、彼は日本語の中でも、口語しか知らないのだろう。少しでも物を読み書きしていれば、この国の言葉が、文語と口語が大きく異なった言語だと気付くはずだ。私的な場と公的な場での言葉が違うことも知らない。敬語も知らない。尊敬ということも知らないと思われても仕方がないだろうと思う。
なにより不思議なのは、この出鱈目な言葉遣いのことに、コメンテーターの誰も触れないことである。
テレビの人の誰もが違和感を持たないのか。日本語は、朝青龍の言葉でこと足りるほど脆弱なものになってしまったのか。
 朝青龍のね、引退のことよりも、まあ、その時の言葉使いについて、心中オダヤカでないわけだし。
ね。やっぱり、日本に来て、国技を極めようとするなら、まあ、ほんとに、この国のコトを、やっぱりね、読み書きをしないといけないしね。
自分は、そういうことを気にする人間だから。ね。まったく、ね。
これじゃ、何を言おうとしているか、ほんとに、わからないですよね。
そんなこともわからない人には、ね、ほんとにね、品格なんて意味もね、理解出来ないと、えーと、やっぱり思うしね。

こんな日本語を、何の疑問もなくメディアで繰り返し報道するって、大丈夫なの?


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